LOGIN十一月になり、街はすっかり冬の装いになった。
蓮くんとのDMは相変わらず続いていて、もはや日常の一部になっていた。
そんなある日。
画面に通知が表示された。
蓮くんからのメッセージ。
『突然なんですが、今週末、お時間ありますか?』
仕事中だったけれど、思わず声が出そうになった。
周りを見回して、誰も見ていないことを確認してから返信を打ち込む。
『はい、大丈夫です』
送信。
すぐに返事が届く。
『少し、直接お話ししたくて。もしよければ……会えませんか?』
画面を二度見した。
会う?
蓮くんと、二人で?
文字を打ち込む。
『ご迷惑でなければ、ぜひ』
送信してから、手が震え始めた。
これは、何?
デート?
いや、違う。きっと、ただの……なんだろう。
メッセージが届く。
『ありがとうございます。詳細は後ほど送ります。人目につかない場所がいいので』
人目につかない場所。
そうだよね。蓮くんは有名人だから、普通にカフェとかには行けない。
当日。
指定された場所は、都内の閑静な住宅街にある小さなカフェだった。
個室完備、予約制。芸能関係者がよく使う店らしい。
「こんにちは」
店の奥の個室に案内されると、そこに蓮くんがいた。
黒いパーカーに、キャップ。マスクをしている。
「来てくれてありがとうございます」
マスクを外した蓮くん。
テレビで見るより、ずっと近い。
「い、いえ……お忙しい中、お誘いいただいて」
緊張で声が震える。
「座ってください」
促されて、向かい側の席に座る。
テーブルを挟んで、蓮くんと二人きり。
これは夢だろうか。
「あの、その……今日は……」
「ごめんなさい、急に呼び出して」
蓮くんが申し訳なさそうに笑う。
「でも、どうしても直接お礼が言いたくて」
「お礼……ですか?」
「はい。この一ヶ月、いつも話を聞いてくれて。本当に助かってました」
蓮くんの表情は、いつもイベントで見る笑顔とは違った。
もっと柔らかくて、素の顔。
「僕、実は……結構しんどかったんです。仕事も、人間関係も」
注文したコーヒーが運ばれてくる。
店員さんが去ってから、蓮くんは続けた。
「SNSで叩かれることも増えて。演技が下手だとか、調子乗ってるとか」
「そんなこと……」
「慣れてるつもりだったんですけど、やっぱりきついんですよね」
蓮くんが苦笑する。
「でも、あなたとのDMが……すごく心の支えでした」
胸が熱くなる。
「だから、ちゃんとお礼が言いたくて」
蓮くんが鞄から、何かを取り出した。
「それと……これ、お返しします」
テーブルに置かれたもの。
瑠璃色のペン。
とんぼ玉が埋め込まれた、私のペン。
「あ……」
「ずっと返したくて。大切なものですよね?」
蓮くんが優しく微笑む。
「はい……ありがとうございます、柊木さん」
ペンを手に取る。
康太がくれた、大切なペン。
「とんぼ玉、本当に綺麗ですね。どこで買ったんですか?」
「これは……幼馴染がくれたんです」
蓮くんの手が、一瞬止まった。
「幼馴染……」
視線が、ペンから私の顔に戻る。
「女性の、方ですか?」
え?
なんで、そんなことを?
「いえ、男性です」
答えた瞬間、蓮くんが少しだけ視線を逸らした。
「そうなんですね……」
コーヒーカップを手に取る蓮くんの動きが、ほんの少しぎこちない。
「大切な、ものなんですね」
声のトーンが、ほんの少し変わった気がした。
「あの、幼馴染というか……昔からの友達で……」
「ああ、いえ。素敵なペンだなと思って」
蓮くんが微笑む。
でも、さっきまでの笑顔と、何かが違う。
少しだけ、距離ができたような。
「あの……柊木さん」
「蓮、と呼んでほしいです。柊木さんだと、なんか距離がある気がして」
え?
「で、でも……」
「ダメですか?」
真っ直ぐに見つめられて、心臓が止まりそうになる。
「……蓮、くん」
「はい」
蓮くんが微笑む。
今度は、さっきまでの笑顔が戻っていた。
柔らかくて、優しい笑顔。
「そう呼んでもらえると、嬉しいです」
それから、空気が変わった。
さっきまでのぎこちなさが消えて、また和やかな雰囲気に戻る。
「そういえば、最近どうですか?仕事は」
蓮くんが話題を変える。
「忙しいです。締め切りに追われてばかりで……」
「大変ですね。でも、あなたの話を聞いてると……なんか、普通の生活っていいなって思います」
「普通、ですか?」
「はい。僕、声優になってから、普通の生活とは縁遠くて」
蓮くんが少し寂しそうに笑う。
「同世代だと、みんな声優の話ばっかりで。業界の外の話って、新鮮なんです」
「そう……ですか」
「それに」
蓮くんが少し照れたように視線を逸らす。
「大人の女性って、憧れます」
ドクン。
今、なんて言った?
「落ち着いてて、優しくて。僕、実は年上の人が好きなんです」
え。
ええ?
「あ、変な意味じゃなくて!」
慌てる蓮くん。
「ただ、そういう雰囲気の人と話してると安心するというか……」
顔が赤くなってるのがわかる。
私も、きっと真っ赤だ。
「蓮くん、二十五歳でしたよね。私、三十一歳なんですけど……」
「年の差、気になりますか?」
蓮くんが真剣な顔で聞いてくる。
「い、いえ……」
「僕は全然気にならないです。むしろ……」
言葉を切って、蓮くんが視線を逸らす。
「むしろ、年上の方がいいというか……」
心臓がうるさい。
これは、どういう意味?
「……そろそろ時間が」
スマホを見ると、二時間も経っていた。
「本当ですか……もっと話していたかったな」
蓮くんが残念そうに呟く。
「あの、また……お時間があれば」
「はい。また、誘ってもいいですか?」
「ぜひ」
蓮くんが少し考えるように間を置いて、スマホを取り出した。
「あの……TwitterのDMだと、事務所に見られる可能性があるので……」
え?
「もしよければ、LINE交換してもらえませんか?」
蓮くんが、少し照れたように視線を逸らす。
「こっちの方が、気兼ねなく話せるかなって」
「は、はい!」
慌ててスマホを取り出す。
QRコードを表示して、蓮くんに読み取ってもらう。
『友だち追加されました』
通知が表示される。
画面を見ると、蓮くんのアイコン。
本名じゃなくて、ニックネームが表示されてる。
「これで、また連絡しますね」
蓮くんが微笑む。
会計を済ませて(蓮くんが全部払ってくれた)、店を出る。
夕暮れの住宅街。人通りはほとんどない。
「じゃあ、また」
「はい、また」
別れ際、蓮くんが立ち止まる。
「あの……」
「はい?」
「今日、すごく楽しかったです。ありがとうございました」
蓮くんの目が、優しく笑っている。
「こちらこそ」
そう言って、私は駅に向かって歩き出した。
十歩くらい歩いたところで、振り返る。
蓮くんは、まだそこに立っていた。
手を振ると、彼も振り返してくれた。
駅に着いて、スマホを見る。
LINEに通知。
蓮くんからだ。
『今日はありがとうございました。また、お話しできたら嬉しいです』
返信を打ち込む。
『こちらこそ、ありがとうございました。また、ぜひ』
送信してから、顔がにやけるのを抑えられなかった。
家に帰って、すぐに康太に電話をかけた。
呼び出し音が鳴って、繋がる。
「もしもし?」
電話越しに聞こえる、康太の声。
「康太、聞いて」
「どうした?」
「蓮くんと、会ってきた」
受話器の向こうで、三秒の沈黙の後、康太の声が跳ね上がった。
「……は?詳しく話せよ」
電話を耳に当てたまま、一時間かけて、今日のことを全部話した。
「それでね、最後に『また誘ってもいいですか』って……」
電話越しに、康太が溜息をついた。
「美月……それデートだろ」
「ち、違うよ。ただの、お礼というか……」
「現実見ろよ。完全にデートだって」
「でも……」
「で、LINE交換したって?」
「……うん」
電話越しに、康太が笑う声が聞こえた。
「お前、本当に鈍いな」
「え?」
「蓮くん、完全にお前のこと気になってるだろ」
「そんなわけ……」
「TwitterのDMじゃなくてLINE交換って時点で察しろよ」
電話越しに、康太の声が続く。
「で、お前は?蓮くんのこと、どう思ってんの?」
「…………」
言葉が出てこない。
「好きなんだろ?」
「…………うん」
初めて、声に出して認めた。
「好き。蓮くんのこと、推しとしてじゃなくて……一人の男性として、好き」
受話器の向こうで、康太が黙っている。
「美月、それ本人に伝える勇気あるのか?」
「ない」
即答だった。
「だって、私なんかが蓮くんを好きになるなんて……おこがましいよ」
電話越しに、康太の声。
「美月……」
「蓮くんは、きっと私のことを『話しやすいファン』くらいにしか思ってない。それを勘違いして、告白なんてしたら……」
「全部、壊れちゃう」
康太は少し黙っていた。
やがて、静かな声で言った。
「無理に言えとは言わねえよ。でも美月、後悔だけはすんなよ」
その言葉が、胸に沈んだ。
だって、わかってるから。
これは、叶わない恋だって。
「康太!!」叫んだ。康太が私を見る。蓮くんが、康太を睨む。「邪魔するな」低い声。「お前こそ、何してる。美月から離れろ」康太が私と蓮くんの間に割って入る。「美月さんは、僕の恋人です」「不法侵入だぞ。ストーカー行為だ」康太が蓮くんに詰め寄る。「美月を、脅すんじゃねえ」「脅してなんかいません」蓮くんの目が、狂気を帯びている。「愛してるだけです」「これが愛か?」康太が蓮くんの胸ぐらを掴んだ。「お前の愛は、歪んでる」「離せ!」蓮くんが康太の手を振り払おうとする。二人が揉み合う。「やめて!!」私が叫ぶ。床に、スマホが転がっている。蓮くんのポケットから落ちたんだ。私はそれを拾い上げた。震える手で、画面をタップする。110番。警察に、電話をかける。「もしもし、警察ですか……助けてください……ストーカーが家に侵入して……」住所を伝える。状況を説明する。「すぐに向かいます」オペレーターの声。「康太、警察がすぐ来るって!」康太に叫ぶ。康太が蓮くんを床に組み伏せた。「動くな」「離せ……美月さん……」蓮くんが私を見る。その目は——悲しそうで、それでいて狂気を帯びていた。「美月さん……僕は、ただ……美月さんを愛してただけなのに……」涙が溢れてきた。怖い。悲しい。何もかもが、崩れていく。五分後、警察が来た。蓮くんは、抵抗することなく連行された。最後まで、私を見ていた。「美月さん……僕を、見捨てるんですか……」「僕は、美月さんのために……」パトカーに乗せられる蓮くん。康太が、私の肩を抱いた。「大丈夫か」「…………」言葉が出てこない。ただ、震えていた。「もう大丈夫だ。俺が、ここにいる」康太の声が、優しい。私は、康太の胸に顔を埋めて泣いた。
週末。土曜の昼、蓮くんと会う約束をしていた。夜は康太と会う予定だ。蓮くんには、夜は予定があると伝えてあった。『何の予定ですか?』と聞かれたけれど、『友達と約束があって』とだけ答えた。『……そうですか。じゃあ、昼間会いましょう』蓮くんの声が、少し冷たく感じた。約束の場所は、いつもの個室カフェ。蓮くんは既に席についていた。「美月さん、こんにちは」いつもの笑顔。でも——何か、違う気がした。「こんにちは」席に着く。蓮くんが、じっと私を見ている。「美月さん、今日は何時まで?」「八時には帰らないと……」「誰と会うんですか?」「友達です」「男性?女性?」「……女性です」嘘をついた。康太と会うと言ったら、また何か言われる気がして。「そうですか」蓮くんが少し目を細める。「美月さん、嘘ついてないですよね?」ドクンと、心臓が跳ねた。「つ、ついてないです……」「ならいいんですけど」蓮くんが微笑む。でも、その笑顔が怖かった。六時にカフェを出て、康太との約束の場所に向かう。駅前の居酒屋。暖簾をくぐると、温かい空気と賑やかな声が迎えてくれた。週末の夜、店内は混んでいる。奥の席に、康太が座っていた。手を振っている。「美月、久しぶり」「康太……」久しぶりに会った康太。変わらない、穏やかな笑顔。テーブルには、もう枝豆と冷奴が置いてある。「先に頼んどいた。美月、ビール飲む?」「ううん、烏龍茶で」「わかった」康太が店員さんを呼んで、注文する。その仕草が、昔と変わらなくて。少しだけ、肩の力が抜けた。「どうした?疲れてる顔してるけど」康太が心配そうに覗き込んでくる。「……ちょっと、色々あって」烏龍茶が運ばれてくる。グラスを持って、一口飲む。康太は、黙って私を見ていた。やがて、静かに口を開いた。「蓮くんのこと、調べたぞ」康太の顔が真剣になる。箸で枝豆をつまんでいた手が、止まる。「やっぱり、二年前にストーカー問題起こしてる。共演した声優に異常な執着を見せて、相手の家に無断で合鍵作って侵入したり、SNS全部監視してたり……事務所が金で揉み消したらしい」握っていた箸が、震える。テーブルに置いた。周りの客の笑い声や、ジョッキが当たる音が遠くに聞こえる。「美月、蓮くんは……多分、また同じこ
蓮くんと付き合い始めて、二週間が経った。毎日LINEが来る。おはよう、おやすみ。今何してる?誰といる?最初は嬉しかった。推しが、恋人になった。夢みたいだ。でも——少しずつ、違和感が芽生え始めた。ある日、会社の同僚と飲みに行った。久しぶりに楽しい時間を過ごして、帰宅したのは午後十時。スマホを見ると、LINEが十件以上来ていた。蓮くんからだ。『今どこ?』『誰といるの?』『返信ないけど、大丈夫?』『美月さん?』『心配です』『電話出てください』『なんで出ないんですか』『美月さん、どこにいるんですか』『連絡ください』『美月さん』最後のメッセージの時刻は、五分前。慌てて返信を打ち込む。『ごめんなさい、同僚と飲みに行ってました。今帰宅しました』送信。すぐに既読がつく。そして、電話がかかってきた。「もしもし」『美月さん、大丈夫でしたか?』蓮くんの声。少し、焦ったような声。「ごめんなさい、スマホ見てなくて……」『誰と飲みに行ってたんですか?』「会社の同僚です。女性二人で」『……そうなんですね』電話越しに、蓮くんが息をつく音が聞こえた。『心配しました。連絡ないから』「ごめんなさい……」『次からは、出かける前に教えてもらえますか?』「え?」『美月さんがどこにいるのかわからないと、心配で仕事に集中できないんです』その言葉に、少しだけ引っかかった。「……わかりました」『ありがとうございます。じゃあ、おやすみなさい』電話が切れた。スマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。——これって、普通?次の日の夜、蓮くんから電話がかかってきた。「もしもし」『美月さん、今大丈夫ですか?』「はい、大丈夫です」『あの……お願いがあるんですけど』「なんですか?」『SNS、鍵垢にしてもらえませんか?』「え?」『美月さんのTwitter、鍵ついてないじゃないですか』「……はい」『誰でも見られるの、ちょっと嫌で』「でも、私そんなに投稿してないですし……」『それでも』蓮くんの声が、少し強くなる。『美月さんのこと、他の人に見られたくないんです』心臓が、ドクンと跳ねた。「……わかりました」『ありがとうございます。じゃあ、明日空いてますか?』「あ、明日は……友達と約束があって」『友達?』
それから、蓮くんとのLINEは少しずつ再開した。以前のように毎日ではない。数日に一度、短いメッセージだけ。でも、それでも嬉しかった。繋がっている。まだ、終わってない。一月の終わり。会社帰り、急に雨が降り出した。傘を持っていなかった。コンビニで買おうかと思ったけれど、もう駅まで走った方が早い。濡れながら駅に向かって走る。冷たい雨が、頬を叩く。駅の階段を上がって、改札をくぐる。ホームに出る。人はまばら。電車まで、あと五分。濡れた髪を手で払う。その時——「美月さん」声。聞き覚えのある、低い声。振り返る。そこに、蓮くんがいた。黒いコート。傘を持っている。「……蓮くん?」信じられなくて、もう一度見る。でも、確かに彼だった。「どうして……」「傘、持ってないと思って」蓮くんが微笑む。「え?」「LINEで、今日会社だって言ってましたよね。で、天気予報見たら夕方から雨で……」私が今日会社だと言ったのは、昨日のLINE。でも、なんで——「美月さん、いつも傘持ち歩かないから」蓮くんが、少し困ったように笑う。「もしかしたら濡れてるかなって」心臓が、うるさい。「だから、来ました」「……どうして、私がここにいるってわかったの?」「以前、最寄り駅の話をしたじゃないですか」そういえば、した。何気ない会話の中で。「それを、覚えてて……?」「はい」蓮くんが一歩、近づく。「美月さんのこと、全部覚えてます」雨の音が、遠くなる。「好きな食べ物。嫌いな食べ物。休みの日の過ごし方。いつも使ってるペンの色。朝が弱いこと。コーヒーは砂糖なしで飲むこと。夜更かしすると次の日しんどいこと」一つ一つ、丁寧に。私が話したこと、全部。「全部、覚えてます」蓮くんの目が、真っ直ぐに私を見ている。「だって——」言葉を切って、蓮くんが少しだけ視線を逸らす。「美月さんのこと、知りたかったから」「蓮くん……」「最初に会った時から、気になってたんです。あのイベントで、瑠璃色のペンを持ってた美月さん。お手紙に書いてあった、アルベルトの話。僕が一番苦しかった時期に、支えてくれた作品を、美月さんも大切にしてくれてた」蓮くんが微笑む。雨が、強くなる。「それから、美月さんのことが気になって。DMを送って、話をして……どんどん、
蓮くんからのLINEが途絶えて、三週間が経った。最後に届いたメッセージは、あの日のもの。『少し時間が経って、落ち着いたら……また、連絡してもいいですか?』私は『もちろんです。待ってます』と返した。あの時は既読がついた。でも、それから三週間。新しいメッセージは、何も来ない。最初の一週間は、何度もLINEを開いた。新しい通知が来るかもしれない。返信が来るかもしれない。でも、何も変わらなかった。二週間目には、もう開くのをやめた。見るたびに、胸が痛むから。三週間目の今日。一月の冷たい夜。会社から帰宅して、いつものようにYouTubeを開いた。蓮くんのラジオチャンネル。『柊木蓮の夜更けラジオ』毎週金曜、午後十時から生配信される。今日も、配信予定の通知が表示されていた。私は画面の前に座り、配信開始を待った。もう会えない。もう話せない。でも、この声だけは聞いていたい。午後十時。配信が始まる。画面に映る蓮くんは、いつも通り穏やかな笑顔で手を振っていた。「みなさん、こんばんは。柊木蓮です」その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。やっぱり、好きだ。この声が、この人が、好きだ。ラジオは順調に進んでいた。新しい出演作の告知、最近ハマっているゲームの話、ファンからの質問コーナー。コメント欄が流れていく。『蓮くん今日もイケボ〜』『新作楽しみ!』『今日も癒されます』いつもの、平和な空気。そして——「最近、SNSで色々言われてるのは知ってます」蓮くんがそう切り出した瞬間、画面のコメント欄が一気に騒がしくなった。『あの炎上のこと?』『誰と会ってたの?』『彼女いるの??』蓮くんは少し困ったような笑みを浮かべて、言った。「ええと……あれは、ただの知り合いと会ってただけです。たまたま写真撮られちゃっただけで」——知り合い。その言葉が、胸に刺さった。「特別な人とか、そういうのは全然いないので、安心してください」画面の向こうで、蓮くんはファンに向かって笑いかけている。優しい声。穏やかな表情。ファンを安心させるための、完璧な笑顔。——でも、私には届かない。コメント欄が安堵の声で埋まっていく。『よかった〜』『蓮くんは私たちのもの!』『安心した!』私は、ただの「知り合い」。特別でも何でもない。涙
それから、蓮くんとは二回ほど会った。いつも人目につかない場所で、短い時間だけ。でも、その時間が私にとって宝物だった。LINEも毎日のように続いていた。おはよう、おやすみ。今日はこんなことがあった。そんな、他愛もない会話。でも、それが嬉しかった。十二月に入ったある日。朝、Twitterを開いて——凍りついた。タイムラインが、荒れている。『柊木蓮、女と密会?』『人気声優・柊木蓮の熱愛発覚か』『目撃情報:渋谷のカフェで女性と』心臓が早鐘を打つ。スレッドを開くと、そこには写真があった。遠くから撮られた、ぼやけた写真。でも、確かに蓮くんだとわかる。そして、その向かいに座る女性——「これ……私……?」先週、蓮くんと会った時の写真だ。コメント欄を見る。『誰だよこの女』『リアコファンやってる私死亡』『声優のくせに女遊びとか最低』『顔見えないけどブスそう』地獄だった。手が震える。これ、私のせいだ。蓮くんが、こんなことに——すぐにLINEを開いた。文字を打ち込む。『大丈夫ですか?』送信。既読がすぐについた。でも、返信は来ない。一時間が経った。二時間が経った。仕事中も、スマホが気になって仕方がなかった。会社にいても、仕事が手につかなかった。スマホを見るたび、Twitterのトレンドに蓮くんの名前が上がっている。『柊木蓮 彼女』『柊木蓮 炎上』『柊木蓮 女』午後三時。ようやく、LINEに通知が表示された。『お待たせしてすみません』次の行。『事務所から、しばらく個人的な交流を控えるよう言われました』胸が冷たくなる。また文字が表示される。『写真の件は、「友人と食事をしていた」ということで落ち着きそうです。でも……』次のメッセージ。『念のため、しばらく連絡も控えた方がいいかもしれません』ああ。やっぱり。文字を打ち込む。『わかりました。蓮くんの仕事に迷惑かけるわけにはいかないので』送信してから、涙が溢れてきた。画面に返信が表示される。『本当にごめんなさい』次の行。『あなたは何も悪くないです。僕が、不用意だった』また文字が表示される。『でも……』しばらく間があって。『あなたと話せなくなるのは、正直辛いです』その言葉が、胸に刺さった。次のメッセージ。『でも、今はこ